yenoniwa’s blog

心に残った表現を書き留めています

第二頁 時の感触

静かな、何事もない、富み栄えた日曜日であった。それというのに、清顕は依然、水を充たした革袋のようなこの世界の底に小さな穴があいていて、そこから一滴一滴「時」のしたたり落ちてゆく音を聴くように思った。 *1

  この文章を読んだ時、したたり落ちた「時」が私の胸にも小さな波紋を描いたのを感じた。そしてそれはすぐ消えた。すぐ消えたのだけれども……
 清顕は十八歳。はたから見たら何の陰りもない、日曜日の平穏。そんな凪に感じる憂鬱と焦燥、瞬く間に過ぎる青年期の間延びした時間を、これ以上ないほど瑞々しく紙の上に繋ぎ止めている表現であると思う。

 

 時間についてもう一つ、三好達治の詩に印象深い文章がある。

すべてが青く澄み渡つた正午だ。そして、私の前を白い矮鶏の一列が石垣にそつて歩いてゐる。ああ時間がこんなにはつきりと見える!私は侘しくて、紅い林檎を買つた。*2 

 こういった文章を通じて私は「なまの時」に触れたような感覚になる。

 時間は流れている。私には物理の知識がないため物理学的な時間の在り方は全くわからないが、私の感覚では、時間は刻々と流れている。
 問題は、それを自覚することがほとんどないことである。時間は私が意識を向けない限り、流れていることさえ感じさせてくれない。「時間」を実感する場合の多くは「過去」であり、今目の前を流れている時間を掴むのは至難の技だ。その「なまの時」を、なまくらな私にもいっときの間味あわせてくれることが、まさに言葉のもつ力であると思う。

 

 私も自分の生活で「時間がこんなにはつきりと見える!」と思わずにいられなかったことがある。私のバイト先では、塀に茂るモッコウバラが大きな窓から見えるのだが、ちょうどそれが満開の頃の昼下がりだった。遠くに雷を聴いたと思えば庭先が暗くなり、また少しもしない内に濡れたモッコウバラに麗らかな日が射している、あの幻のような昼下がり。あれより美しい「時間」を実感したことがない。あの時間そのものに恋をしていると言ったら笑われるだろうか。それほど、胸を締めつける春の感触だった。そしてそれはもう過去だ。私が今大事に抱きしめているのは過ぎた時間の感触で、二度と「なま」の状態に触れることはできない。しかし言葉によって、押し流されていく「時」の一瞬を永遠のなかに留めおくことができる。蝶の美しい標本のように。その力のなんと恐ろしく、なんと嬉しいことだろうか。

*1:三島由紀夫『春の雪』より

*2:三好達治『測量船』「昼」より