yenoniwa’s blog

心に残った表現を書き留めています

第三頁 つまりはこの重さ

  私はどう生きるのか?何を成したいのか?

 こういった考え事に取り憑かれた時、私はどうすればいいのだろうか。奴らは、始め別の考え事の形をとって頭に忍びこみ、狡猾に蟻地獄を作って待ち構えている。今期のレポートのこと、卒論のこと、院進のこと、就職のこと、その先何事もなければ続くであろう60年の時間のこと、どんな考え事も最後には必ずこの渦に巻き込まれ、あとは砂嵐が次に僅かばかり晴れる瞬間まで、気力をこの答えの出ない問いに吸われ続けるしかない。
 蟻地獄の渦中に在る時の神経は、気力を削がれているにもかかわらず、いやむしろ減り続けている分余計に過敏であるように感じる。焦燥や不安や恐怖が、虚無の口の上で足掻いている。春の優しい日差しを受けても、後ろめたさで焼かれるようだし、夜に雨音を聴けば、感傷に溺れて狂いそうになる。何を読んでも、何を見ても、何を聴いても、何の慰めにもならない。感受の回路は混線して、小さな棘を大剣とも感じる。世界との緩衝材としてかろうじて張っている膜を、自分の錯覚が破っているという虚しさ。
 それと同時に、言いようのない重さが私の頭と両肩とを押し付ける。思考が淀みの泡沫のように浮かんでは消え、何も掴めず、何も形にならない。結局私は何が好きで何が楽しくて何にやりがいを感じて何をしたいのか、自分で分かっていない。鉛の枷を引きずるうちにいつのまにか考え始めた場所に戻っている。
 そんな堂々巡りをもう何周もしている。

 

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。*1

 ちょうど『檸檬』を開いたのも、何巡目かの渦に呑まれている最中だった。 その頃は真冬だったが、毎日のように夜遅く本屋に行っては棚を眺めていた。何か新しいことが知りたかったし、本屋は昔から気の休まる場所だった。しかし目につくのは私を苛立たせたり憂鬱にさせたり(私が勝手にそうなっていただけだが)するものばかりで、過敏な神経を撫でつけるには程遠い場所だった。結局私は”安息”の店から逃げ帰り、”気詰まり”な部屋に帰って本棚にある『檸檬』を取った。
 読み始めてすぐ、この一行目から進められなくなった。私の感覚そのものが既に言い尽くされていた。『檸檬』を高校で読んだ時、この一文は記述問題の無害な傍線箇所でしかなかった。再び出会う時には言葉を失うほどの衝撃と納得が秘められているなどとは、思いもしなかった。ここに表されていることが救いなのか暴力なのか分からなかった。

 息の詰まる生活の中で、主人公の「私」は青果店で買った「檸檬」の実感にいっときの幸せを得る。私にとっては、この小説こそ「つまりはこの重さ」だった。砂嵐の中にいても確かな実感を持って身に迫ってくる。その鮮やかさがまさしく「檸檬」だった。『檸檬』の衝撃には軟弱な膜など無意味だった。これらの表現を前にして私はあまりにも無力だし、その無力感はかえって私を前向きにさせた。それは蟻地獄に垂れてきた一筋の糸だった。垂れてきたと言うより、そこに何年も前からあったことに気づいていなかったが、偶然触れることができたと言うべきかもしれない。

 表現に対する無力感という久々の手応えのおかげで、私はようやく堂々巡りのいっときの突破口を得た。

 

 答えの出ない問いに耐える力が必要だ、そんな内容の記事をどこかで読んだ。この先の何年、何十年、「えたいの知れない不安」を背負いながら、答えの出ない問いに向き合い続けることが私に出来るだろうか?蟻地獄も、同じ突破口を二度は通らせてくれないだろう。次にのまれた時に私は何にすがればいいのだろうか?