yenoniwa’s blog

心に残った表現を書き留めています

第七頁 一筋の糸

 本を開いては、求めているものがそこにない苦しさで、本棚に戻す時間が長かった。あれほど様々なことを語りかけてきたはずの言葉が、一番語りかけてほしい時に黙していた。唱えても唱えても、護身の魔法の効力は、するりと身から離れてしまう。何を支えに苦痛の時間に耐えれば良いのか。

 

 苦しさに溺れては浮かぶ繰り返しの中で、ふと芥川の『蜘蛛の糸』を思い出した。

 所が或時の事でございます。何気なく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひつそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるやうに、一すぢ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。*1

 「地獄の底の血の池」でもがいている犍陀多に、思いがけない幸運が訪れる。生前に一匹の蜘蛛を助けた彼に報いて、お釈迦様が極楽の蓮の上の蜘蛛の糸を、地獄までお垂らしになったのだ。この僥倖に彼は手をたたいて喜び、極楽を目指して糸を手繰りはじめる。
 結末は、言わずもがなだ。糸は途中でぷつりと切れて、犍陀多は再び地獄に落ちる。

 ところで彼は、細い細い銀色の糸を見上げた時、その行く先に不安を感じることはなかったのだろうか。だってあまりにもお釈迦様は気まぐれではないか。突如降ってきたこの助けが罠や幻ではなかろうかと、裏切りの恐怖が頭を過ぎる瞬間は無かったのだろうか。それとも本当の極限状態では、そんな恐怖が入り込む隙はないのだろうか。こんな時にも疑いを振り切れないのは、私があくまで事の顛末を他所から見ているに過ぎない身だから?

 

 救いを求めていた。そしてそれが苦しみの途中で切れてしまうことを恐れていた。

 この苦痛や虚無を打ち消してくれるような何か、一筋の蜘蛛の糸はどこにあるのか。それに縋りたい。縋るしかないからこそ、確かなものであってほしい。地獄から救い出してくれる確証がないなら、手に取りたくない。
 断崖の前でいじけていた。登る手がかり足がかりはいくらでもあるのに、身を任せることを自ら拒んでいた。


 少し体力が戻ってから散歩をすると、はち切れんばかりの生気がそこかしこに満ちていることに、本当に驚かされる。たとえば春、開き始めた椿の花びらに宿る光以上の何を、私はこの世に求めているのだろうか。いつのまにか初夏になり、夏に耐えれば秋になり、冬を越してまた春が来る。世界はいつもあるがまま在る。それを受け入れる余力がなかったのだ。世界が堅く口を閉ざして拒んでくると感じるとき、拒んでいるのは世界ではなく私の方なのだろう。そういう時は、また何かを感じ、考える力が湧くまで、じっと待っていればよい。

 

 地獄から抜け出す道は、細い細い蜘蛛の糸一本しかないわけではないはずだ。今漸くそれが理解できる。手に取った杖が途中で折れてしまうことを、折れる前から恐れなくてもよい。何度も杖を取り直して、あの道この道、あの石まであの木まで、気づいた時にはいつのまにか苦しみから遠ざかっていれば、それでいいのだ。

*1:芥川龍之介芥川龍之介全集 第1巻』「蜘蛛の糸」(岩波書店, 1927年, p.563)