yenoniwa’s blog

心に残った表現を書き留めています

第六頁 

 若々しさとは、熱した鉄のようなもので、触れたら火傷をするほど輝いている。その鉄を鍛えていく時間が私には突然訪れた。焼かれるような痛みを常に伴ったけれども、若さの熱を冷ます以外の道がなかった。それが「うつ」という病気の時間だったと思う。

 今、驚くほど回復して、心身ともに整っている。知らぬ間に手からこぼれ落ちた喜びや情熱が、再び手中にあるのを感じる瞬間もある。それ自体がとても嬉しいことだ。しかし同時に、二度と身を焦がすほど燃え上がることはないと感じている。長い時間考え、考え、考え、これまでの何もかもを組み直した。よく言えばそれが精神的な成長なのかもしれないが、「老いた」というのが実感だ。組み直した骨組みは、もうしなやかな若木ではなくなってしまった。風雨に晒された老木で必死に体裁を保とうとしている。

 

 うつ状態だと診断された時、医師から「意欲が回復するのは最後の段階です」と伝えられた。一年でその意味を思い知った。動いても熱が出なくなって、食事がきちんと摂れるようになって、まあまあ眠れるようになって、周りの音や光に痛みを感じなくなって、体は少しずつ治っていくのに、意欲となると雲を掴むような話だった。服薬して半年ほどのことだ。ちょうど休学延長か復学か決めなければいけない時期だった。自分が買い揃えた本を前に、「今日はいけるかな」と立ってみても、どうしても本を開くことができなくて、それが無性に悔しかった。「私はまた自由に本を読んだり勉強したりできるようになるのか」という不安が一番強かったのは、ある程度回復してきた時期だったように思う。何度も本棚に挑んでは跳ね返されていた。止せばいいのにね。
 だから、ある日軽い気持ちで開いた本の内容が「ああ、面白いなあ」と感じられた時は、喜びが文字通り体を貫くようだった。(講談社学術文庫から出ている川本芳昭著『中華の崩壊と拡大』だ。魏晋南北朝の概説書で、内容が本当に面白いのだが、この本はそれ以外の意味でも一生忘れないと思う......。)

 この先のことは何も分からない。五年後、十年後、私は何をしているのか。そもそも何かできるのか。何が起きるかも分からぬ大海に身を任せることは、今の私にはまだできそうにない。来るべき時間を信じるのはとても難しいことだ。それでも、おそらく、私は文章表現について考えることをやめられない。それだけは唯一何の根拠もなく確信している。なぜだろう。なぜそう信じ切れるのだろう。あるものを好きでいることは、自覚しているよりエネルギーが必要なことだと思う。ある意味狂っていないと燃えるような情熱は保てない。病気になって、多くの炎を燃やせる、または燃やす油を蓄えられる若さを手放していくしかなかった。そんな中、最後まで灯っていたのが「文章表現が好き」という炎だった。縋っていた。吹き消さないようにするのに必死だったそれは、今もまだ灯っている。二度と高く燃え上がることはないかもしれないが、それでもいい。青白く、細々と、しかし確かにあればそれでもう十分なのかもしれない。

 それでも生きてゆく。この言葉が、動かせない事実としていつも私の側にある。ある時は楽観的な、またある時は悲観的な意味合いで。喜びがあって、苦しみがあって、それでも生きてゆく。海原には霧が立ち込めている。またもう一度、櫂を握ってみよう。