yenoniwa’s blog

心に残った表現を書き留めています

第五頁 月夜の晩に

 サン=テグジュペリの『夜間飛行』を数度目の挑戦でようやく読み終えた。

 なんですか?!この文章は……好きな表現が書ききれないくらいある。というより、全ての文が力強く緻密なうねりの中にあって、あの小説からある一文や一表現を掬い上げることが難しい。どの章にも驚き圧倒される表現がある。
 凄まじいのは16章、壮絶な嵐の中航行していたファビアンの飛行機が、立ち込める「雲の上まで浮かび出た」*1場面。

 驚愕のあまり息をのんだ。あたりは目がくらむほど澄みきって明るかったからである。(中略)満点の星と満月で、雲海は光り輝く波に一変していた。

 

 嵐は下界で3000メートルの厚さの別世界をつくっている。猛烈な疾風と豪雨と雷の世界だ。それなのにこの世界は、天空の星々に向かって水晶と雪でできた顔をみせているのだった。

 

 眼下の雲は月光をあびて、その雪のように澄んだ白さであたり一面を輝かせていた。そそり立つ高い塔の群れに似た左右の雲の嶺も、同じように反射している。光は白い乳のように流れて機上の二人をひたしていた。

 

 (前略)「美しすぎる」とファビアンは思った。彼は星々が宝のようにびっしりと煌めくなかをさまよっていた。そこにはファビアンと通信士のほかには誰もいない世界、まちがいなく誰ひとり生きていない世界だった。宝の蔵に閉じ込められて二度と外には出られないおとぎ話の海賊のように、つめたい宝石に囲まれて、かぎりなく裕福でありながら死を宣告された身として、彼らはさまよっていたのである。

 恐ろしい筆致だ。轟々たる嵐の中の航行を続ける彼らの命運はどうなるのだろうと読み進めた先に現れる、美しく静謐な世界。しかしそこは既にこの世ならざる「異界」だ。そこに満ちているのは希望ではなく絶望なのだ。
 『夜間飛行』はファビアンほかさまざまな人の視点から語られる文章で構成されているが、ファビアンと通信士の語りは16章で途絶える。彼らの最期について決定的な描写はなく、燃料切れで墜落しただろうということが示唆される。それでも「夜間飛行」は続く。彼らの死は郵便の夜間飛行事業が障害を乗り越えて進み続けるための「約束」となる。その途に彼らが見た天上の絶望的な美しさが、それを安穏の地上から今「美しい」と感動することが軽率に思えるほど沈痛な安らぎが、読み終えてなお心に刺さって抜けない。

 

 生というものはつくづく重い事実だと思う。生きていることは当たり前ではなく、生きていくことは尚更困難だ。そう感じるようになって、今までの唯美主義的な自分の鑑賞の姿勢がよいのか全く自信がなくなった。文学のなかに書かれる他人の生を「美しい」だけで消費することは不誠実ではないだろうか?
 それを初めに感じたのはあれほど陶酔していた李賀の詩を読んだ時だ。

桐風驚心壮士苦 桐風心を驚かし壮士苦しむ

衰燈絡緯啼寒素 衰燈絡緯して寒素に啼く

誰看青簡一編書 誰か看る青簡一編の書

不遣花蟲粉空蠹 花虫をして粉として空しく蠹しめず

思牽今夜腸應直 思い牽かれ今夜腸応に直なるべし

雨冷香魂弔書客 雨冷ややかにして香魂書客を弔う

秋墳鬼唱鮑家詩 秋墳に鬼唱う鮑家詩

恨血千年土中碧 恨血千年土中の碧*2

壮士の秋の悲しみの詩である「秋来」。その最後の二句では、「秋の墓場で亡霊は死者の嘆きをうたった「鮑家詩」を唱和している。昔無実の罪で殺された萇弘の血が地中で碧玉に変わっていたように、壮士(私)の恨みに満ちた血も千年の時をかけて碧玉と化すだろう」とうたわれている。李賀は理不尽な理由で科挙の及第を阻まれている。この壮士は李賀自身ということだろう。秋の夜、生者と死者の世界は渾然となる。尊厳を傷つけられた「壮士」の心をいっとき慰める亡霊のうたも、夜が明ければ消えてしまい、残るのは無理解で理不尽な現実だ。死してのち碧玉と化す他に彼の魂が報われる方法があるだろうか。苦悩が深まれば深まるほど結実する碧玉は美しいと思わずにいられない。そしてそう思うのは彼が訴える生きる苦しみに対してあまりに傍観的な態度ではないだろうか?

 しかし全ての事象を真正面から受け止めようとしていたら体力が持たない!本に限っても、ここにきて私はなんだか距離を測りかねている。話は単純で、「美しくて、良い」ということでいいのだろうか。そうかもしれない……

 

 そういえば、『夜間飛行』を買ったのがもう一昨年になる。一昨年!10月に、用事で行った高松駅の書店で買ったのだ。それが一年半前というのも信じられないが、随分長い時間が経ったようにも思う。去年の苦しかった一年が明けて、2022年になった。病気が快復に向かっていることを実感する時間もある。実際長い時間が過ぎたのだ。苦しみに耐える日々は、過ごしている最中はあんなに永遠なのに、過ぎ去ってみればあっというまの空しい時間。そしてその日々はたぶんまだ終わらない。年が明けたから、休学期間が終わったから、で病気なんか治ればいいのに。しかしそれでは駄目なのだろう。回り続けることが不可能だった生き方の歯車を、この先の人生を続けられるようなものに組み立て直す時間なのだと思う。歯車を壊すのはとても簡単で、直すのはとても難しい。そして「健康」という、歯車がうまく回っている状態を維持することは奇跡みたいなものだ。あの頃眠れずにいた晩の考え事は無駄ではないと思いたいが、健康を犠牲にしてまで得る価値のあるものではない。それだけは確信している。もう二度と、生を切り詰めて月を見上げる日々が続きませんように。

*1:サン=テグジュペリ著、二木麻里訳『夜間飛行』(光文社, 2010年)、以下の引用も同じ

*2:黒川洋一編『李賀詩選』(岩波書店, 1993 年)、書き下しと下の口語訳は黒川氏のものを参考にしてつけた