yenoniwa’s blog

心に残った表現を書き留めています

第一頁 紫色の火花

彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、──凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。*1

 私が芥川龍之介の作品を読むようになったのは、高校生の頃、祖父の本棚にあった作品集で『侏儒の言葉』を読んだのがきっかけだったように思う。「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。」という文が無性に好きだった。人生をマッチに、それも一本のでも無数のでもなく、一箱のマッチに喩える絶妙な加減に感動したのを覚えている。果たして人生が本当にそういうものかどうか、高校生の私が知っていたはずがないが、その頃の頭には十分なインパクトだった。そう言われたらそう思う年だったから。
 それまではおよそ文学というものに全く興味がなかったというのに、すっかり心を掴まれてしまい、彼の作品を片っ端から読んだ。しかし、では具体的に「どこがどう好きなのか」聞かれても、説明できた自信がない。好きという衝動だけがあった。

 

 それから何年か、読める作品はひとまず読み尽くしたことに満足して芥川の文章から離れていた。芥川以外の色々な作家の作品に触れ、芥川以外の文学の世界とその魅力を知った。


 それが何の折だっただろうか。少し懐かしい気持ちで『或阿呆の一生』を読み返した時。あの時の衝撃。その一文一文の放つ鮮やかさは、本当に以前同じ文章を読んだか自分が信じられないほどだった。絶対に読んでいるのだが、では私はこの文章のどこを読んでいたというのだ。「読んだ」というより「見た」だけではないか……。
 とりわけ冒頭の「火花」である。「彼」が「紫色の火花」をつかまえたい気持ちを、ぎょっとするほどはっきりと分かった気がした。「彼」を理解したなどというのは烏滸がましいに違いない。しかし、自分でも届かない心臓の底に触れられたような、恐ろしい熱さを感じた。

 

 それにしても、降りしきる雨のなか架空線から散る火花の、何と美しいことだろう。雨の重苦しい空に瞬く紫色には、「彼」を振り返らせる説得力がある。空虚で憂鬱な心に一瞬の火を灯すには、花や月では平穏すぎるのだ。やはり、一瞬の、しかし激しい火花でなくてはならない。命と取り換えてしまっては花火をつかまえたところで意味がないという理屈も、この火花の前では埒外にある。そういう納得と共感が、胸にこみ上げてくる数文なのだ。
 この文章で、自分は芥川の表現が好きなのだとようやくはっきり分かった。思えば何かの作品について、何が書かれているかよりどう書かれているかによって好きになることが多かったように思う。芥川に限らず、「表現」というものが私はかなり好きらしい。

 「彼」が「命と取り換えてもつかまえ」たい「紫色の火花」、それは私にとっての「表現」だ。言葉の宇宙のなかで燦めく数多の美しい表現。その一つを、私は芥川の文章の中に見つけることができた。この世界をどう表現するのかは、おそらく一生の関心事だ。「紫色の火花」をつかまえたい。つかめないにしても、この世界に散りばめられた花火を見つけ、書き留めたい。ここはこれからそんな場にしたいと思う。